≪茨城県指定文化財 史跡≫
瓜連城址は、楠正成の甥正家が建武中興後の動乱に、足利方に対抗した勤皇・殉国のところとして、昭和9年に県史跡に指定された。
城の形式は、平山城いわゆる向城で、現在の瓜連宿全部が城郭内にあり、本丸は常福寺の本堂の位置にあったと思われる。町宿の周囲に残存する土塁、空濠をつなぐ一大円周の外郭からみても、二の丸・三の丸をもった相当大規模な城郭であったことが想像される。またこの位置は棚倉街道と陸前前浜街道への道の分岐点であった。したがって、交通上の要衝であり、戦略上の要点でもあったのである。
北条氏の鎌倉幕府が滅亡後、後醍醐天皇による建武中興の大業は、兼務2年(1335)足利氏の叛旗によって破れた。関東の大部分はその傘下に入り、当時常陸北部の雄であった佐竹貞義も足利方にくみした。

延元元年(1336)、陸奥国にいた北畠顕家は義良親王を奉じて南下し、尊氏の背後から討とうとした。貞義はその子義篤とともにこれを攻撃したが戦い利なく、太田城を守備して再戦のときをうかがった。この頃楠正成は、甥の楠正家を常陸に派遣し、当国の同志の勢力を統一して鎌倉をおびやかし、さらに白河結城氏との連絡を確保しようとした。こうして正家が瓜連を居城としたのである。

その後幾度かの攻防戦に明け暮れたが、ついに利なくして正家は敗れ、盟友那珂通辰の応援もあったが、瓜連城は落城した。正家は兵庫湊川の正成の下に帰参し、正平3年(1349)四條畷で戦死、那珂通辰一族も太田市正宗寺独松峰で自刃するに至った。
足利方が勝利し、南北朝の世となった興国元年(1340)、高師冬が瓜連城に居城したが、のちに廃城となった。