豊臣秀吉の小田原征伐が終わると、天正18年(1590)に徳川家康は、三河国から江戸へ移った。家康の故郷である三河国の菩提寺は大樹寺といい浄土宗であった。したがって家康は浄土宗に親しみを感じており、江戸へ来てからも同宗をもとめて、江戸城の近くにあった増上寺とその住職である源誉存応(普光観智国師)を重く用いたのである。

この頃浄土宗は、知恩院が本山で、関東地方の本山は鎌倉の光明寺であったが、瓜連の常福寺は、光明寺に次ぐ位置を占め、勅願所、檀林であった。慶長7年(1602)家康は常福寺に100石の寺領を与え、年貢および山林竹林等の諸役を免除する朱印状を与えた。それは佐竹氏が秋田へ移った直後で、これにより徳川氏による常福寺の存在が保証されたことになった。寛永13年(1636)の家光の朱印状にも、家康の通り100石の寺領を認めるとしている。

慶長8年(1603)水戸城主の武田信吉(万千代)が死亡したときには、家康の命により結城弘経寺の檀誉存把上人が導師となっており、上人は常福寺第十三世となった。武田信吉の御霊屋は常福寺の傍に設けられ、のちに常照山心光寺と改号され常福寺末寺となっている。

元和元年(1615)の大阪夏の陣以降、家康は本格的な寺院の全国統制に乗り出し、翌年4月13日に増上寺存応は浄土宗法度三十か条与を常福寺に送りよこしたり、寛永年間には住職を送り、また下知を与えるような勢いを得た。
寛永11年(1634)には2年前に歿した徳川秀忠の御屋がつくられ、その別当所として常葉山円浄寺が創建されると、常福寺第十六世伝誉台山上人が開山となり、代々の常福寺住職が住職を兼ねることになった。また翌12年には、増上寺から常陸国浄土宗本山を常福寺に任命してきたので、これにより有力寺院であった常福寺は、さらに名実ともに常陸国浄土宗の頂点に立ったのである。

水戸藩初代藩主の水戸頼房も、常福寺を手厚く保護し、その歿後は、光圀が頼房の位牌を当寺に安置して菩提所としている。また二代藩主光圀も引き続いて常福寺の保護につとめ、延宝4年(1676)には、朝廷に申請して僧侶の最高の格である紫衣の綸旨を賜っている。

このようにして、近世初頭の常福寺は、将軍徳川氏の保護により、大きく発展したのである。
常福寺の伽藍は、慶安2年(1649)第十八世真誉相閑上人に代に再興されたが、そのときの材木等は、ことごとく水戸家からの寄進により落成した。また頼房がたびたび出向して逗留、指示をしたといわれている。
文政8年(1825)徳川斉昭はまだ部屋住みの頃であったが、父の代七代徳川治紀の十年祭にあたり、その冥福を願って阿弥陀経一巻をみずから写経し、常福寺へ奉納した。

山野辺家は、水戸徳川家と姻戚関係にある。初代義忠は、将軍家光にその偉材を認められて初代水戸藩主頼房の客分家老として一万石を与えられ忠誠を尽くした。二代義堅は頼房の娘利津姫を娶っている。七代義質の娘は、斉昭の内室となり、両家は接近、緊密の度を加えることとなった。義質の長男義観は、そこぶる優秀な人物で、山野辺家八代となり、斉昭の信頼を受けた。天保7年(1836)には、海防総司となり、助川城主として水戸藩改革の要となって活躍した。これより先の文政12年(1829)、義観は水戸藩主継嗣問題に際して斉昭擁立派の領袖として成功し、さらに天保5年には、十二万石増封実現のため斉昭名代となって幕府へ交渉の大役をするなど、斉昭の重用信頼の大なる人物である。そのためであろう斉昭は、義観の長男義正(第九代)に三女祝姫を嫁がせている。

以上のように水戸徳川家と山野辺家、常福寺の関係は密接である。常福寺に保管されていたであろう過去帳等の関係書類は、惜しくも火災によって焼失したのはまことに残念でならない。お寺に於いては、わかる範囲で過去帳を復元している。