南北朝時代の延元年中(1336〜1339)に了実上人によって開山。その後第二世了誉上人の嘉慶2年(1388)の僧坊が焼失したため瓜連城址に移転し、応永12年(1405)に再建された。その背景には佐竹氏の援助があった。
慶長7年(1602)佐竹氏の秋田移封後、徳川家康は朱印地100石を寄進、その後は水戸徳川家との関係が深く、初代藩主頼房の歿後は菩提寺として尊崇された。
本堂は、昭和33年に焼失後再建されるが老朽化のため、平成7年に現在の形で再建し、同年11月に落慶。堂内およそ138坪である。
江戸時代中期から末期までの建造による殿堂として現在に残るのは、山門、桜門、唐門、鐘楼である。
延元年中(1336〜) 了実上人によって開山。
嘉慶2年(1388) 第二世了誉上人の代に僧坊が焼失。
応永12年(1405) 瓜連城址に移転し再建。
宝徳4年(1452) 第三世明誉上人の代、後花園天皇から「勅願所」の綸旨を賜る。
天文12年(1543) 第九世空誉玉泉上人の代、後奈良天皇から宸筆の寺号「常福寺」の勅願を賜る。
慶長7年(1602) 第十一世寂誉文貞上人の代、徳川家康から寺領100石、山林竹木等諸役免除の朱印と賜り、浄土宗常陸総本山、関東十八檀林に列せられた。
慶長8年(1603) 第十三世檀誉存把上人の代、水戸城主武田信吉が逝去され、御葬儀の導師となる。
慶安2年(1649) 第十八世真誉相閑上人の代、水戸藩主徳川頼房によって伽藍を改築。
寛文年代(1661〜) 第十九世白誉而通上人の代、水戸藩主徳川光圀から「拾遺古徳伝」を寄付される。
延宝4年(1676) 第二十世清誉林作上人の代、徳川光圀の奏により、常紫衣の綸旨を賜る。以来、水戸徳川宗家の菩提所となり、次いで守山、府中、宍戸の諸連枝ならびに助川城の家老山野辺家の菩提所となった。
明治4年(1871) 第六十九世孝誉順商の代、廃仏毀釈により、寺領・朱印等が官に没収となり、伽藍ならびに諸事は荒廃をきわめた。
明治40年(1907) 第七十世転誉覚門上人は寺院復興に尽力し、第七十一世正誉覚順上人またその志を継いで努力し、復興に至ったが、落雷のため本堂が焼失し、開山堂を仮本堂として移転した。
昭和33年(1958) 第七十三世徳誉裕幸上人の代、久慈川栄橋竣工式祝賀花火の不発によって本堂・庫裏を全焼。代務高瀬孝仁師ならびに檀徒の尽力により昭和40年(1965)現在のように再建復興された。
昭和46年(1971) 瓜連保育園が開園し、宗教的な幼児教育を開始する。
昭和49年(1974) 第七十四世清誉純生の代、宝物殿が建立され、さらに昭和63年(1988)開山堂が落慶した。
平成4年(1992) 蓮華院が落慶。
平成7年(1995) 現在の本堂が落慶。


現在の本堂