常福寺第二世了譽(聖冏)上人の示寂したのは、応永二十七年(1420)9月27日である。
上人への報恩の大法要を行う祭礼を「二十六夜さん」と称しており、毎年旧暦の9月26日、27日に信者が参籠したので、この名がある。
了誉上人は、「六夜さま」「三日月上人」とも敬慕されており、法然上人を開祖とする浄土宗を今日の隆盛にした中興の師で、浄土宗六高祖の一人である。上人の遺徳の称として聖冏上人とも呼ばれている。

了誉上人の眉間の上には、上弦の月影の疵跡があってその容貌が非凡のため、文殊大士にも似た未来の麒麟児ならんとして、常福寺開祖了実上人から迎えられ入門した了誉上人は、修業勉学に専念したので内外の典籍に通暁し、識力・法力ともに浄土の伝統たぐいなく光を増し、また諸国に学者を訪ね八宗九宗の奥義をきわめた。さらに神道、和歌にも通じ、その博学宏才は衆を超えたと伝えられている。


香仙寺内直牒洞
上人は、元中3年(1387)に46歳で当山の第二世となり、浄土教化につとめその実をあげたが、当時戦火はげしく民家からの火災で殿堂は灰尽に帰した。応永2年(1395)、難を久慈郡松栄(金砂郷村)の阿弥陀山の巌窟(香仙寺内に現存)に避け、述作に精魂を注ぎ多数の著書を編んだ。その中でも「決疑鈔直牒」(十巻)の名著および「日本書記私鈔並人王百代具名記」は、南朝長慶天皇の御即位(1368)を証する貴重な文献となったのである。

応永22年(1415)8月、上人常福寺を第三世了智上人に託して、東京小石川の伝通院を開山し、同27年に80歳で示寂した。のち称光天皇から禅師号を賜り、浄土宗中興の祖と崇められた。また後世の多くの学者や仏教家は、「常陸の産める偉大なる学僧で浄土宗史上のみならず、日本仏教史上特筆に値する」と賛辞してやまなかった。

600年後に至る今日、瓜連地方にひろく「二十六夜尊」として崇敬され、学問の仏様として早朝から深夜まで、近郷近在の善男善女が参詣する。これは知恩報恩の心で、上人の偉大なるお力を少しでも恵与下さるようにとの、向学の学徒・家族の祈願なのである。